「勝つのが当たり前」からどん底へ ~北浦春香が挫折の先に見つけたもの<前編>


こんにちは!広報担当モッチーです。

みなさんは「車いす陸上競技」をご存じですか?インテージグループには、国内トップのアスリート・北浦春香が所属しています。一見、順風満帆と思えるその競技キャリア。しかしそこには、挫折や葛藤、人生を懸けた決意が秘められていました。

北浦の「これまで」、そして世界を舞台に活躍を目指す「これから」をご紹介します!


北浦と「車いすスポーツ」との出会いは、小学校5年生の時。「障がいのある子どもがスポーツを学ぶ」キャンプに参加したことが、そのきっかけでした。このキャンプは「子どもたちが少しでも自立する」ことを目的に、国際大会に出場した経験を持つ障がいのある選手が泊りがけでスポーツを教える、というもの。北浦はこのキャンプで初めて、車いすバスケットボールとテニス、陸上を体験したのです。

しかし、そこからすぐ「車いす陸上を始めたい!」とはならなかったようで…。

「実は、体験した三種目の中で、一番つまらなかったのが陸上(笑)。陸上競技用車いす(レーサー)を操作するのが、とにかく難しくて…。『全然楽しくないやん!レーンの中を走るなんて無理!』という感じでした」と話す北浦。

その後、中学校に進学した時、母親が「人間関係を学んでほしいから、部活に入れば」と後押し。「一人でできそう」「怖い先輩がいない(笑)」という理由で陸上部に入部しました。そして、顧問のアドバイスにより、地元の兵庫県内で開かれていた記録会に出場するようになるころには、「もっと速くなりたい」と思い、車いす陸上を楽しく感じるように。

特定非営利活動法人バラエティ クラブ ジャパン(現在は解散)が、「障がいを言い訳ではなく、強みにしよう」という理念で開催

真っすぐ走れるまでに二年!?


当時使っていたのは普通の車いす。中学二年生になって初めて、「借り物」のレーサーでレースに出ました。実は、レーサーを操るのは至難の業。北浦はこう語ります。
「レーサーで真っすぐ走れるまでには、二年くらいかかります。レーンの中を走ることは、かなり難しいんですよ。レースで自分のレーンの内側を踏んだら、即失格。外側を踏み越えてほかの選手を妨害したら、それも失格です」。

平日は普通の車いすで練習し、週末はレーサーを借りてトレーニング。そんな日々を重ねた北浦にとって、2006年に兵庫県で開催された「のじぎく兵庫大会」(第6回全国障害者スポーツ大会)が、車いす陸上選手として初の公式戦に。その後、世界パラ陸上競技連盟が認定する大会などにも出場するようになりました。

ロンドンで初めて味わったどん底


当時の北浦は試合数を重ねればそれだけ、自己ベストを更新することができていました。車いす陸上競技のおもしろさに目覚めたのもこのころ。

「自分のタイムがよくなっていくのが、とにかく楽しかったんです。でも、国際大会出場などの具体的な目標は持っていませんでした。実はそのころ、陸上よりも力を入れていたのが英語。英語が好きで、ずっと勉強していくものだと思っていました。留学するか、英語教師になるか…。まさか陸上で世界を目指すなんて、考えもしませんでした」

そう言いながらも、出場した大会では好成績を収めていました。北浦は当時をこう振り返ります。
「出場すれば勝つのが当たり前。なんの挫折もなく、国内トップの座を保っていました」。


そして、2012年。日本代表として出場した「4年に一度の国際大会」で待ち受けていたのは、思いもしない展開でした。
開催地はロンドン。「ここでよい成績を収められたら、競技をやめてもいい」。北浦はそう思っていました。しかし、自己ベストが出せていれば余裕で決勝に残れるレベルだったにもかかわらず、出場した二種目で、まさかの予選敗退…。
北浦はレースの記憶がほとんどないと言います。

「惨敗でした。会場には8万人の観客。隣のレーンには大声援を受けるイギリスの選手。そんな環境で走るのは初めてで、雰囲気に圧倒され、スタートラインに付いた瞬間からの記憶がありません」

この大会で北浦は初めて、「思いどおりにいかない」という挫折を味わいました。それまではコーチに言われたことをこなし、敷かれたレールの上を進むだけの選手生活。自分の意志や向上心はありませんでした。「いま考えると、『そりゃ負けるやろ』ですよね…」と振り返ります。

世界最高レベルの大舞台。そこで経験した敗戦をとおして、北浦は「結果がすべて」なのだと痛感しました。そしてその後、落ち込んで、悩み続けて、「どん底な半年間」を過ごし、ある思いが芽生えます。

それは、「このままでは終わりたくない。ロンドンでできなかったことを、リオデジャネイロで達成したい」というものでした。

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